福祉をハジメテ一年経った。
今日のお勤めで、一年仕事をしたことになる。
私は、精神の方向から来たので、知的障害や身体障害については全く知らなかった。
自閉症の子を眼の前にして「どうすっぺ?」とオモッタガ、まあ、相手は人だから、大丈夫とおもった。
知的障害に対する教授とかの講座へいったりして、「脳」のユニークについてわかると、だいぶ理解できた。
あとは、接することで知るしかない。
私は、やはり、精神の視点でみているのであるが、知的障害や自閉症を専門にする人は、
逆に「精神」の角度からみていないのではないか?という風におもえる。
「知的」と「精神」は同居していて、「知的」だけを見て、行動やその人を決め付けるべきではないとおもう。
私は、はじめ、職員が、何故?福祉をしているくせに、利用者との関係において、DVのような関係、過度の依存関係を
平気で起こしているのか?とおもった。
それは、彼らすべてではないが、「精神」の面にウエイトがあまりにも低すぎる為であると考える。
だから、IQ70↑か↓か なんてことよりも、私が見ているのは、
問題を抱える人の、「精神状態」や「家族問題」についてである。
「脳のユニーク」について、変えることは、限界というものがあるのかもしれないが、
状況やココロは変化させることができる、ということであるとオモウ。
彼らは「ど素人の癖に!」といいながら、時にはパワーハラスメントにあたいすることも平気で、私にしてきたが、
この現実を眼の前にして、
私こそが、家族問題からのし上がったとおもえば、
うつ病で一年記憶を失い倒れ、
障害者ハローワークに仕事をください といっていったら、
軽度だろう と決め付けられて 仕事をもらえなかったのだから、
なにか、ここまでのし上がれたのは、
ここで、なにかをする為かもしれないとおもって、
いつも、仁義なき戦い 第一作の「広能 昌三」を思い出して、一年を過ごした。
私は技能を教える仕事をしている。
それは、自分のチームにいる連中と、バンドを組んでいる気持ちでいる。
だから、私は、私のチームでは、「職員」「利用者」という上下関係はいらない。
私が「職員だ」と呼ばれたらオシマイである と、オモッテきた。
職員連中にぶっこまれながら、私は、「利用者の自治区」の「チーム」を作ることに専念した。
誰も、奴隷のように、働かされたり、不当に怒られず、
自分から仕事をはじめ、自分で責任をもって仕事を終わる という状態をだ。
障害があろうと、なかろうと、まったく、それは関係ない。
私は私が生き抜いて来た中で学んだ、
「依存」や「家族問題」についての知識と人への接し方をフル活用することにした。
ある日は、暴れに暴れている子の手をひっぱってきて、チームに入れてしまったこともあるが、
それは、ココロの問題やが多くの原因であった。
私はその施設で、「人権を理解していない」とつるし上げられたことがある。
最後には、数枚の書類に人権に関することがかかれたものをもってこられた。
私は、「ここに書いてあることは現実にはできない。」とだけ答えた。
いくら、「~さん」などと呼んでも、障害者は力関係的になれば弱いだろうだなんて、
行為をしているのは、まったくリスペクトも糞もへったくれもない、からである。
お説教をすることが職員の仕事で、
父兄や教育関連に良い顔をして、手をこねこねし、
ストレスのはけ口の代わりに怒鳴っているようでは、
おまえらに「人権」とか言われたくねえぜ! が正直のところである。
いつか私はいってやろうとおもうのだ。
まだ、わかってない人がいたならば、
「私も、あなた方に怒鳴り散らされる側の人間でした。ですから、奴隷のようにしていることに気がついてください。あなた方は何故ここにいるのですか?」
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